野口晴哉

いつも希望を持って楽しく生きること。どんな苦しみも避けないで迎えうつこと。余分に苦しまないこと。不幸や苦しみを知らないこと。
それ故養生の人は不幸や苦しみを見ません。
こうして楽々悠々生きておりますと、自ずからその息が深く調って乱れないのであります。

どんな動物の親でも、育てるということは知っている。種族保存の本能である。動物の持っている自然の勘である。この勘に依る限り子供を育てるということは快であり、楽しさである。
上達の道は何事によらず同じだ。興味をもって熱心にそのことを実行して脇目をふらない、そして十年も一日の如く過ごすことだ。

戦災で焼けてから、書を深く味わうことを知った。
一枚のレコードも、丁寧に聴けば楽しいもの。
無ければ無いで、楽しさを掘り下げることを、いつか知っていた。
人間って、面白きもの、これから先も、どのようなことがあっても、楽しいことだろう。

異常を除いて正常であろうと考えている養生人は多いが、
問題は異常ではない。
問題は異常の中に正常を保っている体のはたらきである。それがどのように働いているのか、
それを確かめることに養生の道がある。

生くることは楽しい 生を楽しむ心があれば いつも生は楽しく展開する
私は人間の勢いというものだけを見てきた。三十数年ジッとそれを見つづけた。勢いが沈んだ者は、例外なく死んだ。勢いが潜んでいる者は生きた。

愉快に生涯を生きぬくことが全生である。
ジメジメして息していては全生はできない。
健康に生きる為に、愉快ほど大切なものはない。
僅かな利害や面子の為、その大切な愉快を失って生きている人は不幸せである。

飲み 食い 眠り 動くことだけが生ではない
飲み 食い 眠り 動くことを如何に注意しても それで人間を健康にすることも 老いを防ぐことも出来ない

乳児は自然の生物である。生くる為に必要な智恵と構造を有して、必要なことを要求し、余分なことは不快とする。
それ故、乳児の欲求にそって、大人の経験を活かす可きである。押しつけてはいけないことを改めて痛感する。

食べ過ぎたら胃が痛んだ。どうも私の胃袋は弱いと申す人がいた。
食べ過ぎて胃袋が痛むなら、これは当然、正常な胃袋だったと言えよう。
弱いということに結びつける理由はない。使い方が下手だったと言えるだけである。

要求のないところに生はない。
諦めは死だ。自分の為し得ない理由を自分に言いきかせ、自らを慰めていることを病という。

患っている中にも怪我している中にも、活溌に働いているその体を見ないで、その体のはたらきである痛いとか、熱がでるとかいうことを敵のように思って気張って、苦しんでいる人を見ると、もう少し素直に人間の生を、体のはたらきを齎らすものと見られないのだろうかと思う。

人間はビクビク、クヨクヨする為に産まれたのではない。
その証拠にはビクビク、クヨクヨしていると、顔色も悪くなれば、食べものも旨くない。

この世にどんなことが起ころうと、どんな時にもいつも楽々悠々息しつづけよう。
そしてこの心ができた瞬間から、小鳥は楽しくさえずり、花は嬉しそうに咲き、風は爽やかに吹きすぎる。

生きることの価値は生きることそのものだ
生きることの目的は生きることそのものだ
今生きている その生きつつあることそのものが 生きている意義の全部だ 生きる為のいろいろの目的は所詮人間が造ったものに他ならない

人間は誰も死にます。死ななかった人は一人もおりません。それ故、生きている人間の中にはいつも死があります。十年生きたことは、十年死んだのであります。
息を深くし、気を背骨に通して、ウーム大丈夫
の心持たば、人は生する道を自ずと歩む也。何かに求め、助けられるを希い、わらをつかんでいるうちは、泳ぐことできぬ也。一切を捨て去って、自分の裡の力が発揮される也。

生きる者の自然性を健康というのだとしたら、健康ということは、安全無事な肉塊をいうのではない。養生よ、治療よ、予防よと、又利害よ、名誉よと、右往左往して無事であり得ても、それは健康ではない。

豊かな心とは、
無い時は無いように生きることを楽しみ、
有る時は有るように楽しんで、
それにこだわらず、いつも生々溌剌とした気分で一日を暮らせることだ。
無くて困り、有って困って、
持たない為に陰気になり、
持って、その番をして気が苛立つ人は、
どうしても豊かとはいえない。

いたずらした子供をいたずらっ子と認めれば、安心していたずらをつづけるが、いたずらの中に智慧や勇気を認めれば、その如き方向へ能力は伸びる。いじ悪をいじ悪と認めさせたってどうにもならない。その裡に潜む根性とか、それに働く智慧の浅さを認めしむることだ。
人間が活き活きと元気に生きているということは、その個人にとっても、その家に於ても、又社会ににとっても一番幸せなことです。

人間は楽々悠々生きていることが自然だ。
むずかしいことを敢えてやりたくなり、苦しいことを敢えて耐える時は、そのことをその要求するが如く行なえ。苦しいこと、むずかしいことに取り組んでいる中にでも、快があることを見出すに相違ない。

衛生の条件が完備しても、生活水準が高まったとしても、人間の自立ということがなかったら、胃の悪い人を山海の珍味をもって囲んでいることと変わりない筈です。

生くるとは創造することであり それ故新しいことを考え行なうことが無くなると 人は老いる
産む力を失ったことを老衰という

希望せよ 実現してもしなくても希望しつづけよ
活力の源泉として必ず働く

右にするか 左にするか
迷った時は共に捨つ可し
裡に為さんと欲したら 直ちに為せ
成否の為に為すな 裡の欲求によりて為せ

人間の価値は、その自発的行動にある。
教育の目標は、自発性を養うことにある。
自発の行為だけが、人間の自然の動きである。

生には死あり、死ぬことによって生きているといえる。
生死は別ではない。
我が裡に常時うごめく死を見詰めて生きる人は、生を活かす。
死を見ぬ人は生を歪める。

三人の幸せを喜ぶものより百人の幸せを喜べる人は大きい。
しかし世界の全部の人の幸せを、自分の幸せと感ずることのできる人は、どんなところにいる一人の不幸せな人にも胸を痛めるものだ。

自分が至らないから、まだ人を救えないとか、教えられないとかいう人があるが、至った人間など昔から一人もない。
ただ至らないままに人を導き、教え、救っていると、だんだん至る道に近づいてゆく。

気を集めると体のはたらきが活溌になってき、元気が出てくるが、気が抜けるとやることもやれなくなってしまう。
やらなくてはならないと思い乍らやれないのは、気がない場合だ。
やる気があれば、自ずから力も出てくる。
こうして、気は人間の体を動かし、人間の集まりである社会をも動かしてゆく。

人間の生の始めにはまず好奇心がある。
生の活溌な時はすべての事物へ、又その動きに好奇心が働く。
生が萎縮すると好奇心は失せる。
好奇心こそ独創の出発点。
子供達の好奇心を奪うまい。
独創への道を閉ざさぬことは大人の嗜みといえる。
好奇心は新鮮な生へ人を導く。

信じても信じなくても明日はあるが、
明日の幸せを信ずる人は幸せでない筈の条件の中ででも、
活き活き眼を輝かせている。
明日の幸せを信じない人は、
他の人なら幸せに感じられる条件の中で、
不平をつぶやき暗い眼をしている。
しかし明日の幸せは、
誰も信ずることはできる。

世界が広くとも、
一人一人の覚悟がきまれば、
そのようになる。
今、実現しなくとも、
いつかは必ずそうなる。

人間が行動する時に、希望とか、目的とかを持っている時と、何も持っていない時とは、行動する力も、行動している姿も、又疲れ方も、持久力も違います。

電球を割って光源を探しているのが
今までの病理学と解剖学だ。
しかし、体は影、実在してはいない。
無いものが病んでいる訳が無い。
体にこだわっていてはいのちは見えない。
慧可は腕を切った。
南泉は猫を斬った。
いのちは体にあるのではない。

自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。
しかし、なげやりにして抛っておくことは自然ではない。
自然は整然として動いている。その秩序がそのまま、素直に現われるよう生き、動くことが自然なのである。
自然に死ぬのは自然に生きききった者だけである。

人生というものは思い通りには運ばないと嘆いていた人がいる。だから思い通りにしようと活発に働く。思う通りになりだすと間もなくたるんでしまう。思う通りにならない時に焦らず、せっせと努力し続けられる人でも、思う通りになるようになって、たるまないでいることはむずかしい。
大人の知識は、子供の好奇心を喚びおこすのに使う可きで、余分の手助けに使う可きではない。
自分でつくった観念のため、不可能なことだと決めてしまってはならない。一箇のパンを百人で食べても余ることは、百箇のパンを一人で食べてしまうことより実現し易い。

本当の修養は生活を形式に化し窮屈にしてしまうことではない。
形式から離れて、自由に生きられるようにするものでなければならぬ。

いつも振り返らず、悔いず、ただひたむきに生に向かって進むことを説いているのは、息しながら死んでしまわない為である。
記憶とか 正確とか 形式とか 過去に頭を向けていることは それ故に老衰行為だ

余分な力は捨てよ 脱力して弛めることが休養というものだ
硬張らしたまま弛めるな

体がより活溌に動いてのみ丈夫になるのであって、体を動かさないようにすむよう植物化することは人間の健康法ではない。

子供の裡には、次代を拓く智恵が宿っている。
大人が想像することもできないようなことを考え、思いもつかぬことを想像する。
子供の無知を無智と間違えてはいけない。

道は自づから拓かれ 思うが如く人は在る 新しいスタート 今より切るべし

問題は、体ではなく心である。
人を責め、追求し、他人の過ちのために自分の労力を消費するが如きのことをなさず、自分を楽しくし他人を快くすることの空想を、いつも心の中に拡げて生きることが養生というものである。

興味を持つことは、虚ろな眼を輝かせる。それが赤ちゃんから老人迄すべての人に共通である。
大人は、その知識で子供の興味を奪ってしまうことがしばしばある、気をつけたいことである。

旨ければ自ずと、つばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。
楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。
人生は楽々、悠々、スラスラ、行動す可きである。

生とは受身な状態ではない。
今、こうであっても、次の瞬間、どうなるか判らない。
自発的に動くこと、
成長すること、生殖すること等々、
いつも積極的に動きつづけている。
体は物であっても、生は物ではない。
物はいつも受身だ。

他人の幸せを羨んでいるうちはその人は幸せではない。
他人の幸せを喜ぶようになると、その人も幸せになる。
世界の幸いを自分の幸いと感ぜられるようになって、人間が世界と一つの息に生きていることになる。

教え育てるということは先人の知を与え、当人の智を伸ばすことに止まらず、そのもてる能力を発揮して自分自身の足にて立たしむることだ。自分から産み出すを教え、自分の考えを実行し、失敗したら更に力を出すことを体得させることが大切だ。

頭の工夫だけで生きている人は ところどころで とまどいする
そして とまどいしている間に 機は逃げてゆく
機に敏な人も 頭でつかまっている限り しくじることがある
心で感じている人も 感じたまま動けない限り 機は去ってゆく

病気は、体力を養うことのできる人にあっては、その鬱散のための一手段に他ならない。一種の健康法として使うべき性質のものだ。これを怖れ病を病気にしているのは、体力を養うことを知らない人だ。整体全生の道を伝えることは、病気を治すためではない。体力啓発の方法を教えるためである。
人間にとって興味というものは努力する積りなく努力させる力である。成功した人の苦心談が伝えられるが、その人は他人なら苦労することをも、苦労を感じないで行動したことが成功のもとであることは確かだ。

人の死ぬことを知って生きている者は、いつも人生に誠実である。
人のいつか死ぬことを覚悟して生きる者は、養生の人である。

健康たらんとして病気になるまいと工夫し、病気より遠ざからんと努むる人あれど、病気を病気と速やかに感じ、体の裡の少しの異常をも異常と鋭敏に感じ得るに至って健康在る也。
健康の自然法とは、人間に本来具わっているいる適応や平衡のはたらきによって体が発達し逞しくなるように生活することである。守らず庇わず体そのものの力で生活する、その体の全力を発揮して生活するということである。

世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。
自分の世界の中心はあく迄も自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。

ある時は泣く、又ある時は笑う。
同じ花が咲き散ることにでも、楽しくも悲しくもなる。
人間のこの自由な心を知ったら、何もこだわることはない。
泣きたければ泣く、笑いたければ笑うだけである。

自発的に行えば楽しんで行なえることでも、命令され、強制されて行なえば疲れる。命令され、強制されることでも、自発的に受け入れるなら嬉しさがある。人間の行為に於ける真実とは、その自発的であるか否かである。人間が機械になりつつあることを防ぐ唯一のものは、自発の行為に生くることである。

人間の怖れる病菌を専門に食べものにしているミミズの食べ方が判れば、殺菌灯も要らなくなろう。
知識で栄養を分別するには、まだまだ知識は充分ではない。

すでに老衰した人は それ故に慎重であることより 冒険をむしろ愛さねばならぬ

満足は退歩だ
しかし飽くなき追求は破壊だ
新しい開拓は いつも豊かにする
絶望は 心貧しき者のすることだ

自分の欲する方向に心を向けさえすれば、欲する如く移り変わる。
人生は素晴らしい。いつも新鮮だ。いつも活き活きしている。
大きな息をしよう。背骨を伸ばそう。

健康とは、安全無事な肉塊をいうのではない。
常に裡から、活き活きした力を産み出してやまない、
そのはたらきこそ健康というのだ。

薬の使い過ぎで、新しい人体損傷を来たすことを知ったなら、この辺で人間自然に具わっている本来の能力、自然良能について見直す必要があるのではないか。

今日を十全に生ききることを養生という。
然るに明日の為に、今日の生を伝えることを養生のつもりの人がある。
明日を十全に生きるための用意だとのことであるが、毎日、明日はある。
そして毎日、今日なのである。

多くの人は山の自然、海の自然を自然のつもりになっている。しかし人間の自然は自分の体の構造に従って、全力を尽して生くることである。

人間は、その裡に生を全うする能力を持って生まれた。だから生まれたての子供でも、食べ飲み、栄養とすべきは吸収し、余分なものは排泄する。悪いものがあれば吐く。尿もすれば屁もする。
この生まれながら持っている能力を自覚し発揮すれば、自ら生を全うすることができる。

健康法とか、治療法とかが要るつもりになっているのは、知識に酔って生の感覚が鈍くなっているからだ。
鍛錬とは苦しさを苦しくなく経過できるようになることだ。苦しさに耐えていることは鍛錬ではない。

厳しくして体が確りする時には厳しくせよ。
厳しくして体が萎縮したり硬張ってしまう時は、厳しさを押しつけるな。

より良くなる。たとえ這ってでもよい。
もう一歩、より良くなることは、人間の世の中をより良くする、それが生きているということだ。

安座長眠、他人の世話になって、十年二十年、他人より長時間息していたって生きていると言われない。長く息していただけのことで、長寿必ずしも全生ではない。長寿が悪いと言うのではない。
溌剌と元気にその生を十全に発揮し、どんな瞬間も生き生き暮らしてこそ全生と言える。これなら長寿程良い。

真直ぐ進めば良い
ふり返ることは要らない
ただ全力をもって動けば
後に悔いが残ることは無い
いつも 先は 坦々たる道が
拓かれている
それが人生だ

人間というのは言葉で言う前に、もう嫌いなものは嫌い、いいものはいい、心配は心配、不安は不安と感じる。どんなに俺は平気だと思っていても、不安な人がいるとみんなに不安が伝わってくる。

晴れあり、曇りあり。
病気になろうとなるまいと、人間は本来健康である。
健康をいつまでも、病気と対立させておく必要はない。
私は健康も疫病も、生命現象の一つとして悠々眺めて行きたいと思う。

大人は大人の世界に子供を連れ込む前に、子供の世界に入って、天心に息してその裡なる天心を呼び起こさねばならぬ。
天心を保て、天心に生きよ、大人も子供も、みんな一緒に。

上がるのも、硬張るのも、怪我するのも、風邪をひくのも実力である。そう考える可きだろう。皆がそう思うようになれば甘え心は姿を消す。その甘え心に克つ心がけは、特に日本の人々には要る。
自分のための逃げ道を、一切自分で閉ざしてしまうことだけが、弱い人を強くする。そして自分で自分に言訳するような、自分に対する見栄をかなぐり捨て、裡の力で行動すれば、その一挙手一投足は逞しい人間を造ってゆく。
全生ということは文字通り生を全うすることであり、十全に生きることである。その全力を発揮して生くることを全生と言う。

体に栄養が必要となれば食べたくなる。疲れれば眠たくなる。屈み過ぎれば伸びをしたくなる。排便も、排尿も、発汗も、体の欲求による整体を保つ為の無意識的調整法である。
ひょっとしたら人間が病気になるということも、余り無理をするなという自然の警告かもしれない。

子供を大人の小さなものに仕立てて喜んでいる人がある 早老の人を造っている

働かされることは辛いが、働いていることは楽しい。
だから働かされているつもりにならないで、自発的に動くことが肝腎である。
冷たい水でも、浴びせられれば風邪をひくが、自発的に浴びれば風邪をひかない。
めしでも食えなければ餓死するが、食わなければ断食して、丈夫になる。

人間の体は絶えずどこかが毀れている、そしてそれを、絶えずどこかで治している。毀したり治したりしながら生きているのである。だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区別はつけられない。

先が読めない、一寸先は闇とか言うが、明日のことが何でも分かってしまったら人生の面白さは半減してしまう。損したり得したり、思いがけない連続が世の中の色彩を豊かにしている。
思うに一寸先は闇も又人生の面白さであろう。

好奇心こそ、次の時代を拓く鍵である。これを追求し、果てしない努力をつづけるところに、子供の力がある。
体に悪いことを避け、良いことを努めて行なっておりますと、その分だけ体は弱くなります。例えば衛生を守り、熱心に養生して無事な人より、不摂生をしながら無事の人の方がより体力ありといえます。失敗しないで成功した人より、失敗してやっと成功した人の方が、いざというときには力を発揮できます。
興味を持って行なえば疲れない。推理小説を読んで夜更かしをしてしまうのも、麻雀で遅くなっても勝っているうちは眠くならないのも、その為である。

活動せよ 歩けなくなったらはってでも良い
活動の心をもちつづけることは人間を活発にする

健康の原点は自分の体に適うよう、飲み、食い、働き、眠ることである。

失敗を恐れて用心を重ねるだけで、何事もすらすら為し得ない人があるが、これは失敗の意義を知らないからである。失敗というものは、失敗してもこれにくさらないで、元気良く失敗で得た経験を活かして、次の新しい道へ
ふみ出そうとする人にとっては成功への一つの段階に過ぎない。

人間の頭というものは、丁寧に使えば使うほど力が増える。あらゆる機会に、できるだけ多く頭を使って、骨惜しみしまい。
記憶の倉が満員になってしまったり、知恵を出したら減ってしまうようなことはない。出せば出るし、使えば増えるところに人間の
力の面白さがある。

机の前でペンを持ったまま考え込んでいる人がいる。そのペンをおいて指を拡げ伸ばし弛めれば、頭が休まり、又別の考えが浮かぶのに、ペンを握ったまま放そうとしない。筋と大脳の関連を知らないからである。

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