私は学生の頃、塾をやっていた。それなりに受験テクニックに自信を持っていた私は、塾生に余すところなくノウハウを伝授してやろうと思っていた。同時に、研究室では後輩に実験手技を教えたりしていた。分かりにくい作業もすべて言語化し、丁寧に教えてやろうと張り切っていた。
結果は、どちらも惨敗。丁寧に教えれば教えるほど、教えられる方は困惑している様子。長年培った技術の粋をいとも分かりやすく教えてやったと自己満足していたら、ずっと初歩的なことでミスを重ねる。応用に進むどころではない、基礎の積み上げさえできていなかった。
基礎もできていないのに応用を積み上げたものだから、そこらじゅうに穴ポコだらけ。全体が穴だらけだからどこを埋めればいいのかも分からず、大混乱。やむ無く基礎から積み上げ直すことにしたら、生徒や後輩はすっかり自信喪失。私の指導の失敗そのものだ。
ふと、自分が同じ説明を受けたらどうなるか考えてみた。無理だな、と気がついた。とても分かりやすい説明を聞いたとしても、それを時間も時間も話されると、内容が豊富すぎて覚えきれない。どれが基礎でどれが応用かも見分けつかない。印象に残った一つ二つを覚えてるくらいが関の山。
そこで、説明しすぎるのをやめることにした。相手が一つできるようになったら次のを教える。逐次的に教えることにした。しかしそうすると次の問題が出た。教えるのが逐次的過ぎると、いまの作業を「なんのためにやっているか」が分からなくなる。意味がわからない作業をさせられるのは苦痛に感じる。
そこで業務(あるいは勉強、研究)の全体の流れをサッと説明してから、いくつかの作業に分解し、一つ一つ教えていくね、と説明するようになった。すると、個々の作業の位置づけが分かり、それぞれの作業の重要性、必要性が飲み込みやすくなるようだった。必要性が分かるから身が入りやすいようだった。
次に問題になったのは「細かく教えすぎ」なことだった。今思えば、自分が成し遂げた小さな発見の数々を自慢したいという心理も働いていたのだろう。細々とコツやノウハウを伝えようとし過ぎていた。これが大いに問題なのは、「手元がおろそかになる」ことだった。
教えてもらう立場の人間は、教えてくれる言葉を一言も聞き漏らすまいと緊張して話を聞いている。すると注意力が話を聞く方に回される分、手元の作業に注意が向かなくなってしまう。しかも私は手を動かしている最中も言葉をかけ続けるものだから、聞こうとすればするほど手元がおろそかになった。
手元がおろそかになれば失敗する。失敗すると口の多い私がさらに言葉を費やす。するとその言葉を必死に聞こうとするものだから、教えてもらう側はもっと手元がおろそかになり、失敗しやすくなる。なんとか作業を終えても、何をやっていたのか分からなくなり、自信を失わせてしまった。
そこで私は教えることを極力省くようにした。「失敗した方が記憶が強化されるし、目の前の作業の意味も理解が深まる」と考え直し、相手が少々失敗しても、教えた通りにできなくてもまあいいや、と焦らないことにした。
全体の流れをサッと教える。個別の作業をサッと教え、一度やって見せる。記憶が新鮮なうちに、時間をおかずに「じゃ、やってみて」と、替わってもらう。私が後ろでじっと見ているので、緊張しているのがよく分かる。それ以上緊張しないよう、黙って見ておくことにする。
人によっては緊張のあまり、最初に何から手をつけるのか分からなくなってしまう人がいる。そんな時、私を困惑顔で眺める。私は「焦んなくていいよ」とだけ声をかける。教えないけど、思い出せるまで待つよ、ということを無言で伝える。すると落ち着いて、説明ややって見せたことを思い出そうとする。
落ち着きさえすれば一連の作業を思い出せる程度に細かく作業を分解してあるので、こちらも焦らずに見ていられる。待っていると、「あ、これだったかな」と思い出す。「おお」とだけ口にして、それでいいよということを暗に伝える。つまづきながらも教えずにやり通せたら、「じゃ、一人でやってみて」。
なぜ一度通しで見たきりでその場を離れ、一人でやらせてみるのか。それは、教える私がいると、注意力が私と手元の作業に2分割され、作業を頭に叩き込むことが遅くなってしまうからだ。私がいなくなった方が手元の作業に集中でき、結果的に一連の作業を頭と体に染み込みやすくなる。
一人でやらせることの効能は、人目を気にせずに一連の作業を思い起こす余裕ができること。それでいて、そばに私がいないものだから安易には分からないことがあっても聞けない、だから自分の記憶力を頼りにするしかない、と集中力が高まる。だから失敗が減る上に記憶に刻まれやすくなる。
一度一連の作業を終えたら声をかけて、と頼んであるので、終わったら作業の出来映えをチェックする。見本を見せたばかりだし、記憶できる程度に作業を分解してあるし、一度目の前でやって見せてもらっているので、ミスもなく、バッチリ。「いいよ、以後この作業は自分でやって」と任せる。
その作業に多少習熟した頃合いに次の作業を教える。教え方は同じ。そうして一連の作業を終えることができる。終えたら、軽く個々の作業の意味を振り返る。「この作業はどういう意味だったか覚えてる?」一人で作業をしているときに振り返る時間と余裕があったので、そういうことも頭に入りやすい。
「うん、その通り」と追認したら、相手は自信を持てる。
同じ業務をそう毎日している訳にもいかないから、どんどん次のことを同じように教える。
また同じ業務をする必要が出たとき、思い出してもらうために軽く振り返る時間を持つ。そうして土壁を乾いては塗り重ねるように記憶を強化する。
つまり、私が教えたいように教えることをやめ、私の教えを受ける相手の状態をよく見極めて、教える必要のあることは教え、自分自身でやってみたり考えた方が記憶が強化され、理解も深まると思ったら本人にそうさせるようにした。修得に最短の方法を探るうち、「教えない」教え方に変わっていった。
自分一人で作業一つ一つを確認し、意味も考える余裕と時間を与えると、なぜこんなことをしなければならないのか、という納得感も得られる。見本を見て、自分で一度やってみだけの状態で、すぐ一人で任され、うまくやりとげたとなると、密かに誇らしげな気分になる。「一人でできた」という自己効力感。
教えてもらってすぐに一人でできるようになったという自己効力感は、作業への愛着を生む。それが仕事であれ学習であれ、達成感が一つ一つ得られるから、楽しくなる。教えることを極力省き、自分の力で成し遂げたという感覚をなるべくもつ機会を増やすと、仕事や学習に意欲を持てるようになる。
自己効力感、達成感は仕事や学習が好きになるとても大切な要素。仕事が嫌い、勉強が嫌いという人は、やってもやっても身に付かない達成感のなさ、自己効力感の喪失があるためだ。「私にもできるんだ」という自信がつくと、その仕事や学習が好きになる。「できない」が「できる」に変わるのは快感だ。
一連の流れをサッと説明すること、作業を一度で覚えられる程度に分割すること、見本を見せたら目の前でやらせて、今度は「終わったら声をかけて」とだけ言ってその場を離れ、一人でやらせる。出来映えをチェックし、後は本人に任せる。自己効力感、達成感を味わいながら仕事を覚えてもらう方法。
この方法にたどり着いてから、苦労なく仕事を覚えてもらえるようになった。「ここの作業はこうした方がいいのでは?」と逆提案まで出るほどに理解が深まるようになった。記憶と理解を深めながら主体的に考える余裕と時間があるからできること。教えることをどれだけ省いて教えられるか。それが大事。