ドラッカー

(CFO(最高財務責任者)とCIO(最高情報責任者)について)15年もすれば、この二つの世界が統合され、それを統括するポストが生まれるはずである。

(時間管理について)する必要のまったくない仕事、何の成果も生まない時間の浪費である仕事を見つけ捨てる。

(時間管理について)自らがコントロールし、自らが取り除くことのできる時間浪費の原因を排除することである。人は、他人の時間まで浪費していることがある。

(時間管理について)他の人間でもやれることは何かを考える。

(成果のあがらない理由)急ごうとする。そのために遅れる。成果をあげる者は時間と競争しない。ゆっくり進む。

(成果のあがらない理由)同時にいくつかのことをする。そのため手がけている仕事のどれ一つにもまとまった時間を割けない。いずれか一つが問題にぶつかるとすべてがストップする。

(成果のあがらない理由)必要な時間を過小評価する。すべてがうまくいくものと楽観する。だが誰もが知っているように、うまくいくものなど一つもない。予期しないことが常に起こる。しかも予期せぬことはほとんど常に愉快なことではない。したがって成果をあげるには余裕を見なければならない。

「なすべき貢献は何か」を問う。組織の外の人達の期待感、それがすべてです。社内の誰が何をしてくれるか、自分の権限はどこまでかなど、気にしている場合ではない。それよりも、自分が果たすべき貢献、社会や顧客が求める組織の成果をきちんと見据えた「正しい努力」を習慣にする。

「われわれの事業は何か」を問うことがマネジメントの責任だ。

「経営の本質とは何でしょうか?」こう問われるたびに、私が問い返す3つの質問があります。1.あなたの事業は何か?何を達成しようとしているのか?何が他の事業と異なるところなのか?2.あなたの事業の成果を、いかに定義するか?3.あなたのコア・コンピタンス(独自の強み)は何か?

1.成功していないものはすべて組織的に廃棄しなければならない。2.あらゆる製品、サービス、プロセスを組織的かつ継続的に改善していかなければならない。3.成功、特に予期せぬ成功、計画外の成功を追求していかなければならない。4.体系的にイノベーションを行っていかなければならない。

20世紀におけるマネジメントの偉業は、肉体労働に生産性を50倍に上げたことである。そして、21世紀に期待される偉業は、知的労働の生産性を同じように大幅に上げることである。

IT革命が行ったことは、昔からあったプロセスのルーティン化だ。

IT革命とは、実際には知識革命である。諸々のプロセスのルーティン化を可能にしたものも機械ではなかった。コンピュータは道具であり、口火であるにすぎなかった。ソフトとは仕事の再編である。知識の適用、特に体系的分析による仕事の再編である。鍵はエレクトロニクスではない。認識科学である。

アウトソーシングに限らず「労働力」に関して言えば、「コストの問題」と考えるのは根本的な間違いで、「質の問題」として捉える必要があります

アクションプランなくしては、すべてが成り行き任せとなる。途中でアクションプランをチェックすることなくしては、成り行きの中で意味のあるものとないものとを見分けることすらできなくなる。

アメリカがヨーロッパと違っていたのは、上方への移動が容易だったことではなく、それが社会において促進され、大事にされ、祝福されていたことにあった。

あらゆるプロセスにおいて成果の限界を規定するものは、もっとも欠乏した資源である。

あらゆる生産手段のうち、人的資源ほど効率の悪いものはない。この人的資源の活用に成功したわずかな企業が、生産性と産出量の飛躍的な向上を実現する。

あらゆる組織が3つの領域における成果を必要とする。すなわち、直接の成果、価値への取り組み、人材の育成である。これらすべてにおいて成果をあげなければ、組織は腐りやがて死ぬ。したがって、この3つの領域における貢献をあらゆる仕事に組み込んでおかなければならない。

あらゆる知識労働者に三つのことを聞かなければならない。1.強みは何か、どのような強みを発揮してくれるかである。2.何を期待してよいか、いつまでに結果を出してくれるかである。3.そのためにはどのような情報が必要か、どのような情報を出してくれるかである。

ある人が工事現場の脇を通りかかり、汗を流して働いている数人の石工に、「何をしているのか」と問いかけました。一人目の人は、こう答えました。「これで食べている」と。二人目は、手を休めずに答えました。「国で一番腕のいい石工の仕事をしている」と。三人目は、目を輝かせて答えました。「教会を建てている」と。工事現場の一番奥には、こう答える石工がいました。「この地域の心の拠り所をつくっている」と。知識労働者については、「仕事の報酬は、仕事」が最大の動機だといえます。

イエズス会の司祭とカルヴァン派の牧師は、重要なことを行うときには期待する成果を書きとめておくことになっていた。そして九ヵ月後、実際の成果と比べなければならなかった。

いかなる事業であっても焦点を絞らなければならない。多角化が成功するのも情報があるときだけである。

いかに優れた決定に見えようとも、必要条件の理解に不備があれば、成果をあげられないことが確実である。

イノベーションとは、新しい満足を生み出すこと。よりよい製品。より多くの便利さ。より大きな欲求の満足。

イノベーションとは物事を新しい方法で行うことによって資源のもつ富の創出能力を増大させることである。

イノベーションとは未知なるものへの跳躍である。人間の力を主張することではなく、人間の責任を受け入れることである。

イノベーションに優れた組織は、科学的あるいは技術的な重要度によってではなく、顧客への貢献によってイノベーションを評価する。

イノベーションの少なくとも90%は、目的意識をもち、体系を基礎として、かつそれを身につけたものであ

イノベーションの真贋は、価値を創造しているかによって判定される。イノベーションとは、顧客にとっての価値の創造である。新奇さは面白いだけである。

イノベーションの能力とは、一見関係のないものを一つの全体として見る能力である。

イノベーションの目標)「われわれの事業は何か」の問いに対する答えを行動に移すためのもの。

イノベーションは、価値を創造しているかによって判定される。イノベーションとは、顧客にとっての価値の創造である。新奇さは面白いだけである。

イノベーションをマネジメントの枠外に位置づけることは許されない。イノベーションこそマネジメントの中核に位置付けなければならない。

ヴェイルとスローンの意思決定の特徴は次のようなものだった。1.問題の多くは原則についての決定を通してのみ解決できることを認識していた。2.問題への答えが満たすべき必要条件を明確にした。3.決定を受け入れられやすくするための妥協を考慮する前に、正しい答えすなわち必要条件を満足させる答えを検討した。4.決定に基づく行動を決定そのものの中に組み込んでいた。5.決定の適切さを検証するためにフィードバックを行った。

ウェルチは、次の5年間に集中すべきことを決めるにあたって、GEにとっての優先課題を2つか3つ決めたあと、自らが得意とするものはそれらのうちのどれかを考えた。そしてその課題に集中した。残ったものは、トップマネジメントの誰かに任せた。

エコノミストは長期と短期は容易に両立するという。実際にマネジメントを行っているものは、そう簡単でないことを知っている。

オーナー起業家に天才的なひらめきがあるというのは神話にすぎない。

グローバル経済はすでに現実である。にもかかわらず必要な仕組みはまだできていない。 グローバルな法が緊急に必要とされている。

ケインズや彼の教室にいる優秀な経済学専攻の学生たちはみな、「商品の動き」に関心を払っているが、私は「人の行動」に関心がある

コミュニティと家族は安定のためのものである。安定を求め、変化を阻止し、あるいは変化を減速しようとする。しかしわれわれは、人の手によるあらゆるものが歳をとり、硬直化し、陳腐化し、苦しみに変わることを知っている。

これからはマネジメントの階層が急減する。その代わりに、情報を中継すべく残された者はきわめて有能でなければならなくなる。

コンピュータはエグゼクティブにとって力のある道具である。しかしそれは金づちやペンチと同じである。人にできないことはできない。人にできないことができる車輪やのこぎりとは違う。

すでに社会は、「どれだけの教育ある者を扶養できるか」から、「どれだけの教育のない者を扶養できるか」へと問題の焦点を移している。

その人が真摯であるか否かが分かる問い「その者の下で自分の子供を働かせたいと思うか」

それは、人類を取り巻く環境で起こる誰も経験したことのない変化ではないかと思います。つまり歴史上初めて、こうした人たちは、自分自身を経営する必要に迫られるのです。

たしかに経済的な窮乏は悪である。しかしそのような窮乏でさえ、自由の喪失ほどの悪ではない。

チームワークに欠かせないのは、コミュニケーションというインフラです。

チェンジ・エージェントたるための要点は、組織全体の思考態度を変えることである。全員が、変化を脅威でなくチャンスとして捉えるようになることである。

つまるところ、成果を生むために既存の知識をいかに適用するかを知るための知識がマネジメントである。

データ化できないものを考えなければならない。データ化できないものについての配慮を忘れたデータ化は、組織を間違った方向へ導く。

トップとしての仕事ぶりは、トップをやらせてみなければ分からない。トップへの準備は、ほとんど行いようがない。

どのようにして学べばよいのかを学ばなければならない。知識は知識そのものをあっという間に陳腐化させるからです。

ナポレオンはアクションプランどおりに事が運んで戦いに勝ったことはないといってた。しかし彼は、あらゆる戦いで歴史上例のない厳密さでアクションプランをつくっていた。

ニーズを書き出すだけではニーズを満たしたことにはならない。しかしニーズを書き出して、はじめて望む成果を得るための必要な条件を知ることができる

ネクスト・ソサエティにおける企業の最大の課題は、社会的な正統性の確立、すなわち価値、使命、ビジョンの確立である。他の機能はすべてアウトソーシングできる。

ばかな客の悪口を言ってはならない。「別のやり方があるかもしれない」と言わなければならない。

バブル時に、物ごとをよく見せるのは簡単である。そのため、怪しげなものまでトップにのぼる。

ばらまき国家は自由社会の基盤を侵食する。国民の代表たるものが、票を買うために特定の利益集団を豊かにし、国民を丸裸にする。これは市民のコンセプトの否定である。事実、急速にそのように理解されるようになっている。

プロにとっての最大の責任は、二五〇〇年前のギリシャの名医、ヒポクラテスの誓いの中にはっきり示されている。「知りながら害をなすな」である。

ヘンリーフォードは事業にマネジメントは必要ないとの信念ゆえに失敗した。

ほかの者が彼の貢献を利用してくれるときにのみ、成果をあげることができる。

ポスト資本主義社会は、これまでのいかなる社会よりも教育ある者を必要とする。教育あるものは偉大な遺産を理解しなければならない。しかし、何よりも現実を理解できなければならない。

ほとんどの場合、最も重要なことは一つです。その一つに集中することにすべてを懸けてください。

マーケティングとは、顧客を理解し、製品とサービスを顧客に合わせ、おのずから売れるようにすること。

マーケティングの目標)市場において最大ではなく、最適を目指す。

まずは思考を変え、納得したうえで、行動を変える。そのサイクルを繰り返すうちに、頭で考えなくても無意識に行動できるようになります。それが「習慣化」された状態なのです。

まだ行っていなかったとして、今これを始めるか?

マネジメントとは、個の責任とコミュニケーションを基盤とするものである。組織の成員すべてが、自らの目標を考え、他者がそれを理解していることを確かめなければならない。

マネジメントとは、仕事の絆で結ばれたコミュニティとしての組織において機能すべきものである。

マネジメントとは、多様なニーズと目標をバランスさせることである。利益だけを強調することは、企業の存続を危うくするところまでマネジメントを誤り導く。

マネジメントの仕事ぶりとは、主として明日に備えて優れた仕事をすることを意味する。

マネジメントは、医療が科学でないのと同じ意味において科学ではない。マネジメントも医療も実践である。

もはや企業家的なイノベーションをマネジメントの枠外ないしはその辺境に位置づけることは許されない。イノベーションこそ,マネジメントの中核に位置付けなければならない。

よくマネジメントされた組織は、日常はむしろ退屈な組織である。

リーダーシップの本質は1.リーダーシップを仕事とみること。2.リーダーシップを責任と考えること。3.信頼が得られること。

リーダーとは、目標を定め、優先順位を決め、基準を定め、それを維持する者。ときには妥協も必要

リーダーの言うことが真意であると確信をもてること。リーダーが公言する信念と行動は一致しなければならない。少なくとも賢さよりも一貫性。

リーダー的存在であるためには、公共の利益が自らの利益を決定するといえなければならない。この確信だけが、リーダーとしての唯一の正統性の根拠である。

わが子をその人の下で働かせたいかと思うかである。

われわれには二つの道しかない。社会として機能する産業社会を構築するか、自由が無秩序や圧制のうちに消失するのを座視するかのどちらかである。

偉大なソロを集めたオーケストラが最高のオーケストラではない。優れたメンバーが最高の演奏をするものが最高のオーケストラである。

意思決定とは行動を約束することである。起こるべきことが起こらなければ、意思決定を行ったことにはならない。

一流の教師は皆、子供と大人の区別をしていません。進み方の早さに違いがあるだけです。入門クラスであってもレベルは大人のものなのです。

仮説の有効性を検証するには何を知らなければならないか、意見が有効であるには事実はどうあるべきかを問う必要がある

何かを行うか行わないかの選択、ある方法で行うかほかの方法で行うかの選択、ある信条を信奉するか逆の信条を信奉するかの選択である

価格設定の唯一健全な方法は、市場が支払ってくれる価格からスタートし、その価格に合わせて製品を設計することである。

会議を成果あるものにするには、会議の冒頭に、会議の目的と果たすべき貢献を明らかにしなければならない。そして会議をその目的に沿って進めなければならない。会議の終わりには、冒頭の説明に戻り、結論を会議開催の意図と関連づけなければならない。

外部の世界について、情報を組織化することが肝要である。意思決定の責任をもつ者が、 それらの情報をもつことが必要である。

学ぶための最良の方法は教えることにある

学ぶ土壌が人をつくり、それらの人がまた土壌をつくる。組織の価値観は、そんな好循環から生まれます。

簡単なことを前提にして戦略を考える。

間違った問題への正しい答えほど始末におえないものはない。

企業の人たちも、官僚と同じように昨日に愛着を持つ。

企業の目的として有効な定義は唯一つである。顧客の創造である。

企業の目的は顧客の創造である。

企業家として成功した人を大勢知っているが、リスク志向の人はいなかった。

企業活動の目標は、富の創出能力を最大化することにある。

喜びは成果の中になければならない。石臼に向かいながらも丘の上を見なければならない。

奇跡の困った点は稀にしか起こらないことにあるのではない。当てにできないことにある。

起業家は変化を当たり前のものとして見る。自ら変化を起こそうとはしないが、変化を探し、変化を機会として利用しようとする。それが起業家である。

起業家精神とは体系的な作業であり、イノベーションとは技術よりも経済に関わることである。

技術の発展はマネジメントの領域を拡大する。

強みとは、個々人がもっている資質を磨いたものです。得意分野のことではありません。資質は、磨かなければ、もっていないも同然です。逆に、資質を真剣に磨いて強みとすれば、それはかけがえのない個人の財産となります。資産をフルに活用して、組織に、ひいては社会に貢献できるよう、日々務めていきましょう。

強みに集中せよとの格言は常に正しい。組織は多角化していないほどマネジメントがしやすい。

強みの上に自己を築け。強みを生かし、栄養を与え、決して栄養失調にしてはならない。不得手なものを並みの水準にするには、得意なものを一流にするよりもはるかに多くのエネルギーと努力を必要とする。あらゆるものが強みによって報酬を得る。弱みによって、人は何かを成し遂げることはできない。

教育ある人間は、現在に影響を与えるために、自らの知識を役立たせる能力をもたなければならない。

凝りすぎたイノベーションはほとんど確実に失敗する。

経営の本質は、知識を役に立つものにすることです。

経営科学は、一つの前提を持たなければならない。企業とは有機体であるとの前提である。

経験をつんだ後のほうが勉強できる科目は多い。マネジメントがその一つである。

経済的な不安ではなく、心理的な不安が社会を不安定化する。恐怖をもたらす。しかも、その恐怖は道にして予測不能なものであるがゆえに、生贄と罪人を求める。

決定とは、「将来に対する現時点でのコミットメント」である

決定の基礎となった仮定を現実に照らして継続的に検証していくために、決定そのものの中にフィードバックを講じておかなければならない

決定の適切さを結果によって検証するためにフィードバックを行う

個人が組織に貢献するには、「なすべきことを明確にする」「そのために必要な知識やスキルを磨く」「行動する」という三つのプロセスが欠かせない。

個人にとっては、社会的な位置づけと役割がなければ、社会は存在しないも同然である。

顧客からスタートし、顧客は誰か、どこにいるか何を買うかを常に問う。

顧客は誰かの問いこそ、企業の目的と使命を定義するうえで、最初に考えるべき最も重要な問いである。

五十年も働くことが当たり前になったからには、自らを再生することが不可欠となる。たんに活力を得ることを超え、新しい自分をつくらなければならない。

行動しないということは、いかなる行動にも劣らない立派な意思決定である。

貢献に焦点を合わせることが、仕事の内容、水準、影響力において、あるいは上司、同僚、部下との関係において、さらには会議や報告の利用において成果をあげる鍵である。

貢献に焦点を合わせることによって、自らの狭い専門やスキルや部門ではなく、組織全体の成果に注意を向けるようになる。成果が存在する唯一の場所である外の世界に注意を向ける。

今や社会活動、社会問題のすべてがあまりに複雑である。唯一の「正しい答え」があらゆる問題に通用するはずがない。答えは複数ある。

今社会は精神的な価値への回帰を必要としている。物質的な世界を補うためではなく、物質的な世界に意味を与えるために必要としている。

今日のトップマネジメントは現場のマネジメントの延長線上にある。だが明日のトップマネジメントは、現場のマネジメントとは異質の機関となる。それは事業全体のための機関となる。

再民間化とは、家族やコミュニティが担いきれなくなったために政府に任された仕事を、政府以外の組織に戻すことである。

最も簡単にかつ効果的に生産性を向上させる方法は、1.仕事を定義し直すこと。2.やる必要のない仕事をやめること。

昨日を守ること、すなわちイノベーションを行わないことのほうが明日をつくることよりも大きなリスクを伴う。

仕事ができる人は、仕事を楽しむ。

仕事が刺激を与えるのは、成長を期しつつ、自ら興奮と挑戦と変化を生み出すときである。これが可能となるのは、自らと仕事の双方を新たな次元で見るときである。

指揮者は、一人の人間を受け入れるために、楽譜を書き直したりはしない。

私が13歳のとき、宗教の先生が「何によって憶えられたいかね」と聞いた。今日でも私は、いつもこの問い、「何によって憶えられたいか」を自らに問いかけている。これは、自己刷新を促す問いである。自分自身を若干違う人間として、しかしなりうる人間として見るよう仕向けてくれる問いである。

私が定量化を行わない最大の理由は、社会的な事業のなかで真に意味のあるものは定量化になじまないからである。

私たちは、まったく新しい、完全に今までとは違った思想を開発しなければならなくなるでしょう。そのためには、知識にあふれた人たちは管理できないという発想から始めるのがよいかもしれません。彼らの生産性を上げることに力を貸すこと以外には、何もできないのですから。

私は、仕事を楽しんでいない組織のコンサルティングを引き受けない。仕事が好きで、かつ楽観的であれば、それだけで組織の空気は違ってくる。

私は、正しい勉強の仕方、少なくとも私にとっての正しい学び方とは、 うまくいっているものを探し、成果をあげる人を探すこと。

私は、未来を予測する人たちの勇気がうらやましい。彼らと競う気はない。量的な予測は重要でさえない。 重要なことは今日とはとその意味である。

事業には、それ以上成功することは自らにとって有害であるという分岐点がありうる。

事業の目的は顧客を変えることではないという、マーケティングの基本を受け入れなければならない。事業の目的は顧客を満足させることである。

事実シュンペーターの経済学においては、問題は、利益は十分である。未来のコスト、企業存続のコスト、創造的破壊のコストを賄うのに十分な資本形成を行っているかである。

時間の管理は継続的に行わなければならない。継続的に時間の記録をとり、定期的に仕事の整理をしなければならない。そして自由にできる時間の量を考え、重要な仕事については締め切りを設定しなければならない。

時間を管理するためには、自由になる時間をまとめなければならない。成果をあげるためには、大きな固まりの時間が必要である。

自らがコントロールし、自らが取り除くことのできる時間浪費の原因を排除することである。人は、他人の時間まで浪費していることがある。

自らに対し、少ししか要求しなければ、成長はしない。 極めて多くを要求すれば、何も達成しない人間と同じ程度の努力で、巨人にまで成長する。

自らの果たすべき貢献は何かとの問いからスタートするとき、人は自由になる。責任をもつがゆえに自由になる。

自らの果たすべき貢献を考えることは、知識の段階から行動の段階への起点となる。問題は、何に貢献したいかと思うことではない。何に貢献せよと言われたかでもない。何に貢献すべきかである。

自らの成長で、最も優先すべきは卓越性の追求。そこから充実と自信が生まれる。

自らの成長につながる最も効果的な方法は、自らの予期せぬ成功を見つけ、その予期せぬ成功を追求することである。ところがほとんどの人が、問題にばかり気をとられ成功の証しを無視する。

自らの成長のために最も優先すべきは、卓越性の追及である。

自らの成長のために最も優先すべきは卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる。能力は、仕事の質を変えるだけでなく人間そのものを変えるがゆえに、重大な意味をもつ。能力なくしては、優れた仕事はありえず、人としての成長もありえない。

自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。したがってまず果たすべき責任は、自らのために最高のものを引き出すことである。人は、自らがもつものでしか仕事はできない。

自己開発とは、スキルを修得するだけでなく、人間として大きくなることである。責任に焦点を合わせるとき、人は自らについてより大きな見方をするようになる。うぬぼれやプライドではなく誇りと自信。一度身につけてしまえば失うことのない何か。目指すべきは、外なる成長であり、内なる成長である。

自由とは解放ではない。責任である。楽しいどころか一人ひとりの人間にとって重い負担である。それは、自らの行為、および社会の行為について自ら意思決定を行うことである。そしてそれらの意思決定に責任を負うことである

社会とは人間環境の「生態」である。

集中とは、「真に意味あることは何か」「最も重要なことは何か」という観点から時間と仕事について自ら意思決定をする勇気のことである。この集中こそ、時間や仕事の従者となることなくそれらの主人となるための唯一の方法である。

集中のための第一の原則は、生産的でなくなった過去のものを捨てることである。

従来のプランニングは何が最も起こりそうかを考えた。これに対し不確実性の時代のプランニングは、未来を変えるものとして何が既に起こったかを考える

重要なことは、できないことではなく、できることである。

重要なことは「すでに起こった未来」を確認することである。

重要なことは自らの事業は何かを知ることである。

重要なのはカリスマ性ではない。リーダーシップとは人を惹きつけることではない。

小さく始めなければならない。大がかりな万能薬的な取り組みはうまくいかない。

上司は部下に対し、つい、貢献すべきことを語ってしまいがちですが、それは間違いです。貢献とは、自らがもっている知識や能力、強みを使って行うものだからです。他人が外からこれらを正確にとらえることはできません。答えは、部下自身の中にあります。それを問い、聞くことで、チームとして仕事をするためのパイプラインができあがります。

常々言っていることだが、マネジメントは神学ではない。実学である。

情報型組織が成立する条件は、全員が情報に責任をもつことである。

新しいものは常に障害にぶつかる。その時戦う者を必要とする。成功させると胸を張り、取り組む者を必要とする。

新産業の成否は、知識労働者にどこまでやる気を起こさせるかにかかっている。

真のマーケティングは、顧客から出発する。すなわち人間、現実、欲求、価値から出発する。

真の知識とは、情報の量や質ではなく、価値という成果を意識し、特殊な言語を誰にでもわかる言葉に翻訳できる能力を伴うのです。

真摯さは修得できない。仕事についたときにもっていなければ、あとで身につけることはできない。真摯さはごまかしがきかない。一緒に働けば、特に、部下にはその者が真摯であるかどうかは数週間でわかる。

真摯さを定義することは難しい。しかし真摯さの欠如は、マネジメントの地位にあることを不適とするほどに重大である。

人が抜きん出ることのできるものは一つか、せいぜい二つか三つの分野である。よく出来るはずのことを見つけ、実際にそれを行わせなければならない。

人に教えることほど、勉強になることはない。人の成長の助けとなろうとすることほど自らの成長になることはない。

人に信頼され、協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。

人の強みよりも弱みに目がいく者をマネジメントの地位につけてはならない。人のできることに目の向かない者は組織の精神を損なう。

人はコストではなく資源である。共有する目的に向けて共に働くとき、大きな成果が得られる。

人を見分ける力に自信がある人ほど間違った人事を行う。人を見分けるなどは、限りある身の人間に与えられた力ではない。

人を変えることではない。人の持つあらゆる強み、活力、意欲を動員し、そうすることによって全体の能力を増大させることである。

人間にとって成長ないし発展とは、何に対して貢献すべきかを自らが決定できるようになることである。

人類の歴史上初めて、私たちは自分自身を経営する責任を負わされるのです。

成果とはつねに成功することではない。そこには、間違いや失敗を許す余地がなければならない。

成果をあげるエグゼクティブは、意思決定は事実を探すことからスタートしないことを知っている。誰もが意見からスタートする。このことに不都合はまったくない。一つの分野に多くの経験をもつ者は当然自らの意見をもつべきである。一つの分野に長い間関わりながら自らの意見をもたないのでは、観察力と姿勢を疑われる。

成果をあげるエグゼクティブは、原則や方針によって一般的な状況を解決していく。そのため彼は、ほとんどの問題を単なるケースの一つとして、すなわち単なる原則の適用の問題として解決していくことができる。

成果をあげるための第一歩は、時間の使い方を記録することである。

成果をあげるには、自らの果たすべき貢献を考えなければならない。手元の仕事から顔を上げ目標に目を向ける。組織の成果に影響を与える貢献は何かを問う。そして責任を中心に据える。

成果をあげるには意思決定の数を多くしてはならない。重要な意思決定に集中しなければならない。個々の問題ではなく根本的なことについて考えなければならない。問題の根本をよく理解して決定しなければならない。不変のものを見なければならない。したがって、決定の早さを重視してはならない。あまりに多くを操ることはかえって思考の不十分さを表す。何についての決定であり何を満足させるかを知る必要がある。形にこだわることなく、インパクトを求めなければならない。賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない。

成果をあげるには手を広げすぎてはならない。一つのことに集中する必要がある。

成果をあげるのは才能ではなく、習慣だ。

成果をあげる者は、時間が制約要因であることを知っている。あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは最も欠乏した資源である。それが時間である。

成果をあげる人とあげない人の差は才能ではない。いくつかの習慣的な姿勢と、基礎的な方法を身につけているかどうかの問題である。

成果をあげる人に共通するものは、つまるところ成果をあげる能力だけである。成果をあげることは一つの習慣である。実践的な能力の集積である。実践的な能力は習得することができる。

成果を生み出すために、既存の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識がマネジメントである。

成功の鍵は、自分の情報を必要としているのは誰か、それはどのような情報か、逆に自分は誰の情報を必要としているかを全員が自問することである。

成長するには、ふさわしい組織でふさわしい仕事につかなければならない。基本は、得るべき所はどこかである。この問いに答えを出すには、自らがベストを尽くせるのはどのような環境かを知らなければならない。

成長とは、能力を修得するだけでなく、人間として大きくなることである。

政府、大学、ビジネス、労組、教会のリーダーたる者が意思決定の前提とすべきものが、「すでに起こった未来」である。

生まれついてのリーダーなど存在せず、リーダーとして効果的にふるまえるような習慣を持つ人が、結果としてリーダーへと育つのだ

生産手段のうち、人的資源ほど効率の悪いものはない。この人的資源の活用に成功したわずかな企業が、生産性と産出量の飛躍的な向上を実現する。

生産性の要因は会計における生産性だけを見ていては不十分。それ以外に知識、時間、製品の組み合わせ、プロセスの組み合わせ強み、組織構造を見る。

生産性を高めるにはより賢く働くことが生産性向上の唯一の鍵である。

責任とは、成果を挙げることに責任を負うだけでなく、成果を上げるうえで必要なことをすべて行い、それらの成果に全力を傾けることである。

専門知識の所有者たる専門家自らが,自らの知識領域を理解しやすいものにする責任を果たさなければならない。メディアだけでは,この役割を果たすことできない

戦略計画とは1.リスクを伴う起業家的な意思決定を行う2.実行に必要な活動を体系的に組織する3.活動の成果を期待したものと比較する連続したプロセスだ。

善意で山は動かない。山を動かすのはブルドーザーである。使命と計画書は善意に過ぎない。戦略がブルドーザーである。戦略が山を動かす。

組織が偉大たりうるのは、トップが偉大だからである。

組織が存在するのは社会のニーズを満たすため。組織はあくまで手段である。それら組織の中核がマネジメントだ。

組織において、力強くはあっても腐ったエグゼクティブほど、ほかの者を腐らせる者はいない。

組織には、明確な使命がないといけない。目的があるときに最も生産性が良い。

組織に働く者の場合、自らの成長は組織のミッションと関わりがある。仕事のできないことを、設備、資金、人手、時間のせいにしてはならない。それではすべてを世の中のせいにしてしまう。よい仕事ができないのをそれらのせいにすれば、あとは堕落への急坂である。

組織に必要とされるものは、真摯に仕事をする有能なトップマネジメントであって、超人ではない。今日何人かのスーパーマン的なトップがいるということ自体が、トップマネジメントの危機を表している。

組織の精神とは、訓戒、説教、善意ではない。実践である。

組織の目的は、人と社会に対する貢献である。

組織の利点とは強みを成果に結びつけつつ、弱みを中和し無害化する。

組織は、自らのために存在するのではない。組織は手段である。それぞれが、それぞれの社会的な課題を担う社会のための機関である。

組織は、優秀な人たちがいるから成果をあげるのではない。組織の水準や習慣や気風によって自己開発を動機づけるから、優秀な人たちをもつことになる。そして、そのような組織の水準や文化や気風は、一人ひとりの人が自ら成果をあげるエグゼクティブとなるべく、目的意識をもって体系的に、かつ焦点を絞って自己訓練に努めるからこそ生まれる。

組織はコミュニティにおいて活動する。成果はコミュニティに現れる。しかしコミュニティに埋没することを許されず、コミュニティに従属することを許されない。

組織は人間から成るものであるがゆえに、完全を期すことは不可能である。したがって、完全ならざるものを機能させることが必要となる。

組織より長生きするがゆえに、知識労働者は仕事を変えることができなければならない。

組織を効率的に運営できるリーダーに共通する要素として、部下とコミュニケーションを取ることを自らの責任と捉えていることが挙げられます。自らの任務を遂行するために、誰からの、どんな情報が、いつ必要なのかを把握し、また、他人に任せた業務に関し、どの情報が、誰に、いつ必要かを掌握しているのです。

創造性とは、体系的な仕事、汗水を流す仕事である。

想像力や知識は成果の限界を設定するのみで成果をあげることとは関係がない。成果をあげるためには仕事をやり遂げる能力をもつこと。

多数の知識労働者をチームとしてまとめ、高度に分化された専門知識を統合して機能させるには、これからの企業、とくにその経営トップには、彼らを管理・監督する能力が求められます

妥協が必要になるからこそ、何が受け入れられやすいかではなく、何が正しいかを考える。それなくして、妥協の正否を見分けることはできない。

妥協には二種類ある。一つは「半切れのパンでも、ないよりはまし」であり、もう一つは「半分の赤ん坊は奪われるよりも悪い」である。

体系としてのイノベーションで重要なことは、事業、人口、価値観、科学技術の世界で、すでに起こった変化を体系的な作業によって見つけることである。

大きな業績をあげる者は、機会を中心に研究の優先順位を決め、他の要素は決定要因ではなく制約要因にすぎないとする

第一に身につけるべき習慣は、なされるべきことを考えることである。何をしたいかではないことに留意してほしい。

卓越した者の強みや能力が他の者にとっての脅威となり、その仕事ぶりが他の者にとっての問題や不安や障害となることほど、組織にとって深刻な問題はない。

卓越性を追求するプロセス。1.卓越性を得る分野や能力を決めること 2.それを獲得するために、時間やエネルギー、お金などを集中させること。 3.卓越性を究めるために自分の強みを徹底的に利用すること

知りながら害をなすな

知識そのものを競争力要因とするわけにはいかない。知識そのものは瞬時に伝播する。したがって、先進社会が30年、40年にわたって手にすることのできる競争力要因は知識労働者しかない。

知識ではなく叡智に、力ではなく自己規律に、成功ではなく卓越性に焦点を合わせる

知識とは、個人や組織が何らかの成果をもたらすような行動を可能にし、何かあるいは誰かを変えるものである。知識とは何かを変えるものであることを認識するだけでも、何かが変わっていく。

知識とは専門化である

知識とは本来、何か、あるいは誰かを変えるものであり、世のため人のために正しく利用して初めて価値あるものとなります。

知識にあふれた人たちは管理できないという発想から始めるのがよいかもしれません。彼らの生産性を上げることに力を貸すこと以外には、何もできないのですから。

知識に関わる者は高度の倫理基準を求められる

知識に上下はない。状況への関連の有無しかない。

知識は、本の中にはない。本の中にあるものは情報である。知識とはそれらの情報を仕事や成果に結びつける能力である

知識は電気のような一種のエネルギーだ。使われるときになって、その存在がわかるのです。

知識を基盤とする知識組織では、システムそのものの生産性を左右するものが、知識労働者一人ひとりの生産性である。かつては働き手がシステムのために働いたが、知識労働ではシステムが働き手のために働く。

知識社会とは非階層の社会であって、上司と部下の社会ではない

知識労働は専門的である。あまりに専門的であるがゆえに、ほとんどの組織において細分化されざるをえない。

知識労働者が成果をあげるための第一歩は、実際の時間の使い方を記録することである。

知識労働者が生産するのは物ではなく、アイデア、情報、コンセプトである。

知識労働者たる者は、仕事のなかに継続学習プロセスを組み込んでおかなければならない。知識組織は学ぶ組織である。教える組織でなければならない。

知識労働者というものは、自らが自らに課す要求に応じて成長する。

知識労働者にとって重要なことは、1.どこへ行こうとしているかを知ることである。2.責任を与えられ、かつ自己実現することである。もっとも適したところに配置されることである。3.継続学習の機会をもつことである。そして、何よりも敬意を払われることである。

知識労働者には二つのものが不可欠である。その一つが、知識労働者としての知識を身につけるための学校教育である。もう一つが、その知識労働者としての知識を最新に保つための継続教育である。

知識労働者の生産性の重要度については強調しすぎることがない。知識労働者の特性は、働き手が労働力ではなく資本だというところにある。資本の働きを決めるものは費用の多寡ではない。量でもない。

知識労働者の動機づけは、ボランティアの動機づけと同じである。報酬ではなく仕事そのものから満足を得なければならない。

知識労働者は、それ自体が独立して成果となるようなものを生み出さない。溝、靴、部品などの物的な生産物は生み出さない。知識労働者が生み出すのは、知識、アイデア、情報である。それら知識労働者の生産物は、それだけでは役に立たない。それらのものが意味をもつためには、他の知識労働者がインプットとして使い、何らかのアウトプットを生み出してくれなければならない。

知識労働者は、ほとんどが専門家である。彼らは一つのことをよく行うとき、すなわち専門化したとき大きな成果をあげる。しかし専門知識はそれだけでは断片にすぎず不毛である。専門家のアウトプットは、他の専門家のアウトプットと統合されて成果となる。

知識労働者はそれ自体が独立して成果となるようなものを生み出さない。知識労働者が生み出すのは情報である。知識労働者の生産物は、それだけでは役に立たない。それらのものが意味をもつためには、他の知識労働者がインプットとして使い、何らかのアウトプットを生み出してくれなければならない。

知識労働者は効率ではなく、効果で評価されるべきなのです。

知識労働者は自らをマネジメントしなければならない。自らの仕事を業績や貢献に結びつけるべく、すなわち成果をあげるべく自らをマネジメントしなければならない。

知識労働者は生計の資だけの仕事では満足できない。彼らの意欲と自負は、知識人としての専門家のものである。彼らは、知識をもって何事かを成し遂げることを欲する。したがって知識労働者には挑戦の機会を与えることが不可欠である。

知識労働者は生産手段を所有する。それは頭の中にあり、持ち運びができる膨大な資本財である。

知識労働者は先進国において急速に主たる資源となりつつある。しかも知識労働者は主たる投資ともなっている。なぜなら教育こそ、今日あらゆる投資のうち最も高価だからである。そして彼ら知識労働者は、あらゆるところでますます大きなコストセンターとなりつつある。

知識労働者を、金で懐柔することは不可能である。もちろんそれらの新産業に働く知識労働者も、実りがあれば分け前を求めるだろう。だが、実りには時間を要する。知識を基盤とする新産業の正否は、どこまで知識労働者を惹きつけ、留まらせ、やる気を起こさせるかにかかっている。

知力、想像力、知識と、成果をあげることとの間には、ほとんど関係がない。頭のよさが成果に結びつくのは体系的な作業を通じてのみである。

知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。それらの資質を結果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は、限界を設定するだけである。

超達人はどんな場合であれ、「ノー」と言わなければならないときが分かっています。そして何を目指せばよいのかわかっています。しかもいつも、自分自身のいるべきところがわかっています。だからこそ、彼らは超達人になれるのです。これはそれほど難しいことではありません。つまり書き記して、それをチェックすること。そして何か重要なことをするときには必ずそうなってほしいと期待する内容を書き記すことです。その後振り返って、こう自問するのです。「この決断からどんな成果が生まれたのか」さらに、成果を記録することによって、簡単に自分の強みが学べます。

長い人生の間に私が協力した組織をすべて思い起こしてみると、そこには成功を収めている組織と、せいぜい月並み程度に終わっている大半の組織との違いが見えてきます。それは、成功を収めている組織の経営者たちは、自分自身を管理監督しているということです。彼らには自分の強みがわかっています。しかし驚くことに、自分は何に長け、何が得意なのか、本当にわかっている人はほとんど見当たらないのが実情です。

頭のよい者がしばしばあきれるほど成果をあげられない。彼らは頭のよさがそのまま成果に結びつくわけではないことを知らない。頭のよさが成果に結びつくのは体系的な作業を通してのみであること知らない。それらの資質を結果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。

働くものとしての責任とは、成果を挙げることに責任を負うだけでなく、成果を上げるうえで必要なことをすべて行い、それらの成果に全力を傾けることである。

二〇世紀における建設的な成果は、カリスマ性とは縁のない人たちの手によるものだった。第二次世界大戦で連合軍を勝利に導いた軍人も、ぬきんでて有能だが死ぬほど面白みのなかったアイゼンハワーとマーシャルだった。

肉体労働者ではなくなった80パーセントの人たちは、仕事に知識を活かすことによって給料を得ているのです。彼らは何よりも、昔の学校が関心の対象にしてこなかったことを学ぶ必要があります。つまり彼らは、どのようにして学べばよいのかを学ばなければならない。知識は知識そのものをあっという間に陳腐化させるからです。

日本が直面しているのは危機ではなく、時代の変わり目=移行期なのです

日本の成功は、マネジメントが原動力であり、経済発展はその結果であることを示した。

販売とマーケティングは正反対である。同じ意味でないことはもちろん、補い合う部分さえない。

必要条件を簡潔かつ明確にするほど、決定による成果はあがり、達成しようとするものを達成する可能性が高まる。

部下の成長は、育成した者にとって昇進に値する貢献としなければならない。

部分は全体との関係において存在しうるにすぎない。

変化はコントロールできない。できることは、その先頭にたつことだけである。

変化は組織の外で起こる。

変化をマネジメントする最善の方法は、自ら変化をつくりだすことである。

本当の貢献を必要とするのであれば、それらの貢献を行った人たちに報いなければならない。

本物の変化とは人が行なうことであり、一時の変化は人が言うことである。

毎朝、洗面台の前に立ったとき、鏡の中に「見たい自分がそこにいるか」を問う。

毎年つくる計画どおりに一年を過ごせたことは一度もない。だがこの計画によって、私はいつも失敗し、今後も失敗するであろうが、とにかくヴェルディの言った完全を求めて努力するという決心に沿って、生きざるをえなくなっている。

万人が生産手段としての知識を手に入れ、しかも万人が勝てるわけではないがゆえに、成功と失敗の並存する社会となる。

未来を語る前に、今の現実を知らなければならない。現実からしかスタートできないからである。

未来を予測するだけでは問題をまねくだけである。なすべきことは、すでに起こった未来に取り組み、あるいは来るべき未来を発生させるべく働くことである。

未来予測とは、希望的観測のもっともらしい別名にすぎない。

毛沢東が行ったよいことの一つが、読み書きのできない人を大幅に減らしたことである。まことに古い方法で問題を解決した。字を読めるようになった子供に先生役をさせた。生徒に先生役をさせるほどの近道はない。

目的と使命に取り組むうえで答えるべき究極の問いは、顧客にとっての価値は何かである。

目的を喪失して得られたものは、知識ではなく情報の束にすぎません。

問題に対しては、つねに行動をとらなければならないという考えそのものが、迷信にすぎない。

問題の分析によって解決案が一つしか見つからなければ、その解決案は、先入観に理屈をつけたにすぎないものと疑うべきである。

優れた者ほど間違いは多い。それだけ新しいことを試みるからである。

優れた組織をつくりあげる鍵は、働き手の潜在能力を見つけ、それを伸ばすことに時間を使うことである。

優秀な経営者は、その決定をフォローアップすることが自らの仕事だと認識しています。重要な決定を下したり、重要な行動を起こしたりする際には、どのような結果を期待しているのかを書き留め、ファイルしておくのです。そして、一定期間が経過したら、ファイルの中身を確認します。

優秀な知識労働者であればあるほど、自分の専門分野で働き続けることを強く希望しているものなのです

優先順位の基準は、「過去ではなく未来」「問題ではなく機会」「横並びではなく独自性」「無難で容易なものではなく変革」さらには「内部ではなく外部」であり、これらを選択することは勇気がいる。

利益とは、それがなければいかなる責任も果たせず、よき雇用者にも、よき市民にも、よき隣人にもなれないというものである。

利益は目的ではなく、社会貢献を続けるための原資。利益とは、企業存続の条件。

流通力をもつナレッジ・カンパニー(知識を基盤とする会社)にならなければならない。製造の力では、製品を差別化しきれない。

力を集中するための第一の法則は、もはや生産的でなくなった過去のものを捨てることである。

労働の質を劇的に変えた原因は、企業に生じた大きな変化にあります。バブル期の日本企業に代表されるように、かつての国際企業はさまざまな国にできるだけ多くの資産を「保有」することを重視し、いかに資産ー土地であれ、企業であれーを増やすかに狂奔しました。しかし、21世紀の国際企業が最重視しているのは「戦略」です。いかに効率的に経営できるか戦略を練り、研究・開発をコントロールしていくかに知恵を絞る頭脳労働=知識労働が、その中心にいるのです。

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